私の生い立ち part①生まれ〜高校生まで
生い立ち
1986年 8月19日 ココシャネルと同じ誕生日に神戸に生まれ、父は歯科医師、母と共に診療所を経営し、6歳離れた兄が1人、待望の女の子として迎えられました。
時代はバブル絶頂期
私の誕生と共に家を建て、ベンツを購入した父
ベビーシッターに家政婦が2人
世間で言われる「お嬢さま」として
何不自由なく暮らす日々に疑問を持つことなく
無邪気に過ごす。
幼稚園
東の慶応、西の甲南と呼ばれる
私立幼稚園へのお受験を受けるために様々な幼児教室へ通う。
3歳までにピアノや水泳、体操教室、英語・・・。
母親はとにかく躾に厳しくなると共に自我の芽生えを感じていた。
この頃から私の不眠症が始まった。
長い夜は、とにかく生まれてきた意味や理由を考えた。
生前の記憶が曖昧にも残っていたような気がしていた。
今考えると少し不毛な時を過ごしていたのかもしれない。
この受験を機に、幼稚園~大学までエスカレートで進むことになった。
半ば人生が決められたようにも感じ、安心と不安な気持ちをごまかしていたような時期。
小学校進学
神戸という地域柄か、多国籍の人と触れ合う機会が多かった。
とにかく 神戸北野クラブで、外人との交流は印象深い。
この頃に、異文化に対しての興味や認識という形でごく自然に慣れ親しんだ。
両親はジャズが好きで2人でよくブルーノートへ行き、(現在のビルボード)
いとこの家によく預けられた。
大人ってカッコいいなって思い始めていた。
しかし、バブルは崩壊。
同級生の親の会社は次々に倒産。友人は転校や、親の事情で学校へ通えなくなったり、
交流が取れなくなったり、子どもながらバブルでの転落を感じていた。
小学2年生〜最初の転機が訪れる。
阪神淡路大震災。
我が家以外は全壊、全焼し、近所の人たちからは
「奇跡の家」と呼ばれた。
しかし、両親は神戸を離ることを決意した。
「もう2度と神戸には帰れない」と告げられ着の身着のままで家から出て行った。
失ったものは数知れない。
大切な人の死、同級生の死、思い出。大切にしていたもの・・・。
何を失って、何が残ったのか今になってはわからないが
もう2度とあの頃の神戸や、あの頃の人生の延長ではないと悟る。
そしてまた「生きる意味」や「生まれてきた意味」への探求が始まる。
中高校時代
多感な中学生時代。
ようやく、「自己啓発」という言葉を知る。
ちょうど時代もスピリチュアルブームもあって、宇宙の法則や成功法則というのを勉強し、ジョセフ・マーフィーやジェームス・アレンは私の愛読書になった。
しかし私にも反抗期があった。
中学2年の1年間はとにかく、「うざい」「だるい」を連呼し、校則を守ること=ダサい。
と思い込み、茶髪にし、先生をからかってしまうような決していい生徒ではなかったが、
自分では反抗の期限を1年と決めていた。
そこで中学3年生では、突然人間が変わったように「風紀委員」になった。
1番風紀を乱していた私が地毛より黒い髪にし、おさげヘアー。
周りは不思議がったが当の本人である私からすれば、自然の流れだった。
そこで、「人は一瞬で変わる!」と確信した。
そして中学から大学生までの10年間は女子校生活。
男子鎖国時代を迎える。
男子への興味と裏腹にも苦手意識が芽生える。
高校生になると、周りの友人たちには次々と彼氏ができる・・・。
しかし私には、できる気配も、できる気持ちさえしない。
だって、男性と何を話せばいいの?
と、ただただ
最初は、可愛いぶりっ子の女の子の真似をしてみるが自分には定着しなかった。
そこから、私の「モテ」への研究が始まったのです。
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